歴史遺産学科Department of Historic Heritage

井上千遥|近代における農村の土地所有 -山形県南村山郡堀田村成沢の事例より-
山形県出身
岡陽一郎ゼミ

目 次 はじめに/成沢地区の変遷/名寄帳/小作慣行調査/小作争議の背景/おわりに

 山形県南村山郡堀田村成沢が農村として、どのような時代背景により、変遷を辿ったのかを述べる。その上で、土地名寄帳や小作慣行調査を基に、成沢の土地所有について明らかにすることを目的とする。成沢地区は山形市の南東部、そして山形?宮城両県に跨がる蔵王山系の西麓に位置している。当地区は元は鳴沢と呼ばれ、豪雨に際し急に水が流れ、沢や細流が轟音を立てることからの名前と言われる。耕地は、龍山の伏流水を溜池に蓄え、鳴沢川に注ぐことによって形成された。
 地租名寄帳は、地租の納税義務者ごとに土地を集約した帳簿である。堀田村成沢の地租名寄帳は5冊に亘っており、1~4冊目は在村地主の所有分、5冊目は不在地主の所有分となっている。この研究では地目と段別、所有者が在村地主か不在地主かに注目した(図1)。分析の結果、畑の筆数が最も多く、畑の所有者数が最も多かった。面積は、田が一番大きかった。在村地主は708人、不在地主は278人であった。農商務省が全国で行った小作制度や慣行についての調査が小作慣行調査であるが、堀田村では大正11(1922)年に行われている(図2)。小作慣行調査を実施した理由は、近代的法整備への参考のためと、増発する小作争議に対応するためであった。特に、大正10(1921)年の小作慣行調査は、小作契約の締結、小作契約の時期、小作料、小作料の納入、小作料の滞納等17項目にわたる詳細な調査である。これは、小作料減免を求める小作争議の広がりが背景にあった。同じ村山地方の東村山郡、西村山郡、北村山郡と比べて、南村山郡の小作争議発生件数は格段に少なかった。これは、南村山郡に大地主が少なかったことと、小作地率が低かったことが要因と考えられる。成沢の名寄帳によると、在村地主、不在地主とも、10町歩以上の地主はいなかった。以上のことから成沢の小作争議発生件数も少なかったと考えられる。本研究では、成沢地区で確認した資料の中から、名寄帳に注目して分析を行ったが、大正11(1922)年のもののみでの研究となった。もっと深く分析を行うため、他の時代の名寄帳との比較が今後の課題である。

1. 土地名寄帳

2. 小作慣行調査書